【メンタルヘルス×筋トレ】Taiki-fitness's blog

【筋トレ×メンタルヘルス】の重要性について書いていきます!

〜僕の生涯〜

T-fitnessです。

こんにちは!

1991年生まれの30歳。

現在、進学塾の講師をしています。

 

単に自己紹介だけだとありきたりですし、

皆様に本気度が伝わらないと考えたので、

私の今までの人生とこれからの目標について書きました。

 

長い文になると思いますが、

ご一読していただけると嬉しいです!

 

【生誕〜幼稚園入園前まで】

1991年、フィリピンセブ島で生まれる。

父母弟妹の5人家族。3兄妹の長男。

幼少期の私はとにかく泣き虫。

母親から離れられず、ほんの少しの留守番でも大泣きしてしまうほどだった。

 

どこへ行くにも大泣き。

両親以外に抱っこされても大泣き(汗)

本当にたくさんの人たちを困らせてしまったと今でも思う。

 

3歳の時。

右腹部に火傷を負ってしまった。

泣き虫の割に好奇心旺盛な当時の自分は、

沸いたばかりのヤカンを触り、そのまま熱湯をこぼした。

 

鮮明に残っている一番古い記憶は何?と聞かれたら

間違いなく火傷をして救急車に運ばれた時と答えるだろう。

 

『涙脆い』『好奇心旺盛』これは今でも変わらない。

その2つ以上に一番変わらないことがある。

それは、

『争いごとやケンカが大嫌い』なこと。

自慢ではないが、

小さな頃から3兄妹で言い争いやケンカを一度もしたことがない。

言い争いやケンカになりそうになると、

自ら手を引くことで、円満に収まればいいなという考えが昔からあった。

いいように言えば、誰にでも優しくできるということにもなる。

両親、兄妹、友人など、たくさんの人たちから

「本当に優しいよね」と言われ続けてきたので、

『優しさ』という部分では自負してもいいと思う。

 

【幼稚園入園〜卒園】

幼稚園に入園したのは4歳から。

年中からのスタートなので、2年保育ということになる。

 

母親から離れるのが嫌で仕方なかったので、

当然、幼稚園も毎日大泣き。

『友達を作ろう』

というより

『早く家に帰りたい』

と思っていた。

 

そんな自分でも、幼稚園の生活は少しずつ慣れ、友達もできた。

だんだんと楽しくなっていき、幼稚園で毎日大泣きだった自分はもういなかった。

 

リーダーシップはなく、相変わらず争いごとは嫌い。

何かしらの順番をすぐに友達に譲ってしまうところがあった。

 

しかし、お遊戯会などの主役はなぜかやりたがるようになっていた。

それも好奇心旺盛である面の1つなのかもしれない。

 

【小学校入学〜小3】

小学校へ入学。

何もかもが新しく、ドキドキしたことを覚えている。

幼稚園とは違う生活。

授業、、朝や帰りの支度、休み時間、給食、掃除、

初めて出会う友達、上級生との関わり、たくさんいる先生方・・・。

 

ドキドキしている反面、楽しみでもあった。

 

 

しかし、ある壁にぶつかる。

 

自分から友達を作ろうとすることができなかったのだ。

 

自分から話しかけようとしても、なんて声をかければいいか分からず、

休み時間は1人で過ごすことが多かった。

話しかけてくれる友達もいて楽しかったこともあったが、

どうも積極的な自分になりきれていなかった。

 

大人になって親から聞いたことだが、

当時の担任の先生からは、言語障害があるかもしれないと言われたそう。

 

今もたまにモゴモゴしたり変に噛んだりしたりしているところもあるので、

自分としては言語障害でも納得がいく。

まあ、検査はしてもらっていないので実際はどうか分からないが。

 

小3の秋頃までは、消極的な自分が続いていた。

友達と遊ぶより1人でゲームをしたり、宿題をしたりした方が楽だった。

 

そんな自分を変えてくれたターニングポイントが突然やってきた。

 

【小3冬 野球との出会い〜小学校卒業】

小3の冬のある日曜日。

外を歩いていたらたまたま少年野球チームの集団が

グラウンド移動のために歩いているのを見た。

その友達に「一緒に野球やろうぜ!」と誘われた。

「野球なんてやらないよ」と心の中で思っていたが、

小学校の頃野球をやっていた父親の影響もあり、

体験入部として練習に参加することになった。

始めた頃は投げるのも捕るのも打つのもなかなか上手くいかなかった。

試合にもたくさん出られないことが多かったが、

野球そのものはとても楽しかった。

 

上手くなりたい一心で素振りとピッチングを積み重ね、

試合で打てるようになった。いいピッチングもできるようになった。

 

5年生だった頃は6年生の試合にもレギュラーで出場。

ずっと5番ファーストで試合に出ていた。

6年生の時はダブルエースの一角&4番としてチームを引っ張った。

夢はプロ野球選手。本気で目指していた。

 

野球をやっていたことが大きく功を奏し、

いつの間にか積極的な自分になることができた。

試合に勝ってみんなで喜んだり、負けて悔しがったり、

友達と一緒に練習を頑張ったりしているうちに、

自分に自信がついてきたのだと思う。

努力が実を結ぶということも初めて知った。

その自信を学校生活にも活かすことができ、

小6の時には児童会の会長を務め、仕事を全うすることができた。

 

卒業式では、

呼名されたら一言スピーチをして卒業証書を授与するというルールがあった。

プロ野球選手になって、

重い球でバッターを打ち取れるスーパーピッチャーになりたいです!」

このようにスピーチをしたことをはっきりと覚えている。

本当に目指したかった夢だったので、自信をもってスピーチできた。

 

野球が僕を変えてくれた。

野球よ、本当にありがとう!

 

【中学校入学〜中2】

学区内の公立中学校へ入学。

同じ小学校の友達に加え、少年野球のライバルチームにも

たくさんの友達がいたので、交友関係を築くのには

全く苦労することはなかった。

 

高校進学に必要な成績を取れる程度に勉強をしつつ、

友達と一緒によくふざけていた。

 

携帯を持ってきてみたり、

家から学校まで遠くないのにもかかわらず

改造した自転車で通学をしてみたり、

授業中ふざけて盛り上げてみたり・・・。

 

そんな学校生活が楽しくて仕方がなかった。

 

もちろん野球も続けた。

中学校の部活には入らずに、硬式野球のクラブチームに入った。

同じ中学校からは4人の友達も一緒だった。

 

そこで初めて壁にぶつかることになる。

中1の始めから中2の春にかけて成長痛を発症し、満足な練習ができなかった。

 

本当は練習したくてたまらない。

だけど練習ができない。

葛藤と戦う日々が続いていた。

きっと他のチームメイトからは「またサボってる」と思われていただろう。

 

そんな中でも、小学校から野球をやってきた友達はいつも通り接してくれた。

だから乗り越えることができた。

本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。

 

【中2冬〜中学野球引退】

中2の冬。突然自分の野球能力が覚醒した。特にバッティング。

バッティング練習ではホームラン性の打球を狙って打てるようになっていた。

練習試合でもヒットをたくさん打つことができて、

4番バッターとして試合に出る機会も増えた。

腐らずにコツコツ努力してよかったなと実感することができた。

 

冬のある日。

都内私立高校野球部のスカウトが自分を合わせた4人のプレーを見に来た。

そんな中のバッティング練習。

いつも通りホームラン性の打球を連発した。

なぜかみんな喜んでいる。

チームメイトも監督もコーチも後輩も父親も。

バッティング練習が終わり、スカウトの方に呼ばれ、握手をされた。

「すごいパワーだね!是非うちの高校に来てください。

1年生の夏からすぐに4番で使います!」

そう言ってくださった時、なぜかみんなも喜んでくれている。

 

成長したという実感ができたのも嬉しいけど、

それ以上に自分が活躍したらみんなが喜んでくれることが何より嬉しかった。

『誰かのために』『みんなの力になりたい』

ここで初めて思った2つの柱は、今現在も変わらない。

 

最終的には5番ファーストとして最後まで試合に出ることができたが、

プレッシャーに弱い自分は大会になると全然打てなかった。

時々スタメンから外れることもあった。

 

プレッシャーの弱さが課題として浮き彫りになったところで、

自分の中学野球は幕を閉じた。

 

【進路決定〜中学卒業】

高校でも野球を続けることを決めていたので、

引退の翌週からは毎週グラウンドで自主練を続けた。

 

進路をどうするか。当然決めなければならない問題だ。

 

どの基準で高校を選ぶか、自分の中では決めていた。

『声をかけてくださった学校で1年生から活躍したい』より、

『レギュラーになれなくてもいいから強豪校で甲子園に出たい』

という思いが強かった。

 

声をかけてくださった学校も野球に力を入れている学校だったが、

それ以上により上のレベルに挑戦したかった。

 

行きたかった埼玉県の強豪校で野球のテストを受け、

無事に合格をいただいた。

 

中学校生活も最後まで楽しく、卒業式を無事に終えることができた。

 

【野球部としての3年間】

入学式前から野球部の練習が始まった。

ランニングや基礎トレーニングばかりで、とにかくキツかった。

当時92kgあった体重が75kgまで落ちたほど。

 

それ以上に先輩や同級生の野球のレベルがもの凄く高かったことに驚いた。

「これから最後までやっていけるのかな・・・。」

という不安ばかりがよぎったことは今でも忘れない。

 

だけど、同級生同士も本当に仲が良く、先輩たちも凄く優しかった。

しんどいことも多く実力差を毎日痛感しながらも、

みんなで練習することが楽しくて仕方がなかった。

 

高1秋、

県大会準優勝、関東大会ベスト4まで勝ち上がり、

春の甲子園大会出場を決めた。

レギュラーどころか、ベンチにも入ることはなかったが、

先輩たちの活躍を目に焼き付けることができた。

 

春の甲子園大会では準優勝。

その年の夏は県大会初戦で負けてしまったが、

本当に夢のような時間を過ごすことができた。

この野球部にいることを誇りに思えた。

 

新チームでは、実力差をより感じるようになり、腐っていたことが多かった。

私生活も悪い意味でオワコンだ。

授業中にゲームをして叱られたり、

眉毛を剃って監督に叱られ、1週間練習に参加することができなかったり。

 

高3の夏の大会前に2軍でたくさんヒットを打って

猛アピールをし続けたが、最後まで1軍に呼ばれることはなかった。

 

元々他のチームメイトと比べても守備や走塁の技術が劣っていたので、

ベンチ入りを果たすのは難しいと分かっていた。

 

だけど、アホなことをし続けていなければ

まだ少しは希望が残っていたのではないか。今でも後悔している。

 

最後の夏は県大会優勝を果たし、甲子園に出場することができた。

甲子園練習でグラウンドの上に立つことができたことは今でも最高の思い出。

チームメイトと一緒に喜びを分かち合うことができて

本当に幸せだった。

 

『レギュラーになれなくてもいいから超強豪校で甲子園に出たい』

という目標は叶った。その反面、自分としては強く後悔が残った。

 

『本当に目標を達成する前に、当たり前のことをしっかりやること』

このことを高校3年間で学んだ。

 

【大学時代】

小5時代の担任の先生の影響もあり、小学校の先生を目指すことに決めた自分は、

指定校推薦で都内の大学に入学した。

 

野球は辞め、やりたいことをたくさんやった。

パチンコやスロット、AKB48のオタ活、バイト、野球サークルの設立、

恋愛、飲み会、労働以外で収入を得ている人たちとの交流、

教育実習、教員採用試験。

どれも自分なりにやり切った。

 

【小学校の先生 1〜6年目】

東京都の教員採用試験に落ちてしまった自分は、

縁があって埼玉県内の小学校に赴任した。

 

初めて聞く言葉ばかりで、

最初の職員会議では頭が真っ白になったのをよく憶えている。

 

分からないことばかりで、毎日緊張して仕事をしていたが、

子どもたちは、いつも明るく接してくれた。

 

2、3年目には、埼玉県の別の市内の小学校に赴任。

初年度の経験があったおかげか、

仕事にはだいぶ慣れてきて、

自分なりに子どもとの関わり方も分かってきた。

自分が先生だからと言ってオーラを変えることなく、

素の自分でいようと思ったので、子どもと関わるのが凄く楽しかった。

本当に何のストレスもなく毎日自分らしく過ごせていた。

 

教員採用試験に合格し、東京都内の小学校に赴任。

 

この学校には4年間と少し勤務していたが、

本当に先生同士の団結力が凄かった。

 

ベテラン若手関係なく行事で力を合わせ、

子どものためにアイデアを幅広く出し、

いつも笑顔で明るく毎日職場のムードが最高。

何より、誰かが苦しんでいたらみんなが颯爽と助けにいく。

最高の職場だった。

 

その環境の中で僕は、憧れの先生と出会った。

その先生は、

面白く分かりやすい授業をしたり、

何においてもアンテナを張ったりして、

常に学校の先頭に立っている。

何より一番驚いたのは、

子ども大人関係なく、その先生に引き寄せられるということ。

どんなクラスを受けもっても、

子どもたちはその先生に引き寄せられるだけでなく、

内に秘めているやる気に火をつけられる。

ウィリアム・ウォードの言葉に

「平凡な教師は言って聞かせる。

よい教師は説明する。

優秀な教師はやってみせる。

しかし、最高の教師は子供の心に火をつける」

というものがある。

その先生は、自分にとって『最高の教師』だった。

 

何をするにも相談していたし、1聞けば100にして返してくれる。

絶対に見放さず、力になってくれる。

「いつか一緒に学年組みたいな」と思った。

その願いが叶い、2年前に同じ学年を組ませていただくことになった。

 

自分がもっている長所を全面に引き出してくれたので、

最高に楽しい1年間だった。

 

1クラス40人という大人数だったが、

教員人生で一番良い学級経営ができたという自信がある。

 

「『先生と子ども』という関係ではなく、『同じ人と人として』」

学年を組む前からその先生に教わったことは、

自分の教育信条として揺るがないものになった。

 

たくさんのことを得た反面、

自分の存在自体に違和感を抱き始めたのもこの頃からだった。

 

ここから自分の人生の価値観が大きく変わることになる。

 

【小学校教員 7年目】

2020年4月は、言わずもがなコロナが流行り緊急事態宣言が出された期間だ。

当然学校に行けるわけもなく、

在宅勤務でひたすら休校期間中のプリント作りに勤しむ日々が続いた。

 

6月に休校期間が明け、子どもたちが登校を始める。

1ヶ月間は分散登校、7月からは元の登校形態に戻った。

 

 

自分自身の違和感を本格的に感じ始めたのがこの頃からだった。

 

教員を始めたばかりの時は、

初めてのことばかりで、毎日頭の中がパンクしていた。

このパンクは当たり前だと思っていて、

仕事に慣れればパンクしなくなるだろうと思っていた。

 

だが、それは大きく違っていた。

 

いろいろな仕事をしている中で、

なぜか頭のパンクが止まらない感覚があったのだ。

・1つの仕事をしている時に違う仕事が降りかかった時

・職員室がうるさい時

・ストレスや疲れが溜まっている時

・仕事が溜まっている時

 

明らかにおかしい。

「もしかして・・・発達障害なのでは?」

そう思い始めてから精神が病み始めた。

 

7月の最後の数日間は出勤できなかった。

終業式は何とか出勤できたが、自分の心の病みは消えない。

 

9月になり、2学期が始まった。

数週間は何とか出勤できたが、

4周目に入り、自分に限界がやってきた。

「何で自分が教員なんだ」

「何でこんなに苦しまなきゃいけないんだ」

「自分がいることでみんなに迷惑をかける」

「死にたい。生きる価値がない」

ずっとそう思っていた。

自己肯定感はすでにもうない。全てを悲観的に捉える自分がいる。

 

心療内科に行ったら、案の定、

『成人期ADHD』『二次障害として抑うつ状態』と診断された。

 

自分では分かっていたから受け入れるべきだったが、

簡単に受け入れることができなかった。

薬との戦い、ネガティブな自分との戦い、劣等感との戦い。

復活するのには本当に苦労した。

少しずつ回復し、病院でのリワークを経て、2021年1月に復職。

 

もうあの頃には戻りたくない。心からそう思えた。

 

【小学校教員8年目〜現在】

新年度になり、新たな気持ちでスタートできた。

心身の調子もよく、毎日が楽しかった。

 

・・・6月後半までは。

 

やっぱりダメだった。

何年も前から積み重なった自分の中のストレスが一気に爆発してしまった。

それをずっと我慢して仕事をしていたが、一瞬で糸が切れた。

 

自分がやりたいことなのに、

他の何でもない要素によって心身が壊されてしまう。

「このままだと本当に死ぬ」

そう思った。

 

間違いなく、治ったはずの『抑うつ』が再発した。

症状を調べると、全てが当てはまる。

具体的な症状はインターネットで

たくさん出てくるので、是非調べていただきたい。

 

8月12日に退職。

 

職場環境も良かったと思うし、

子どもたちもみんな可愛かった。

保護者もいい方々だったし、

楽しい思い出もたくさんできた。

 

受けもっている子どもたちを立派に成長させたかったが、

 

自分の命には代えられない。

 

子どもたちには本当に申し訳ないが、

いつ死ぬか分からない人生。

このまま死ぬわけにはいかない。

 

【後悔のない人生を送るために】

 

「やっておけば良かったな」

「チャレンジすれば良かったな」

という後悔はしたくない。

 

後悔しないために自分は何をすれば良いか。

それは何年も前から決まっている。

 

『自分が経験したことを形にする』

ことだ。

 

・【学習+野球+メンタルヘルス】の事業

・フィジーク大会出場

 

今まで自分が経験したことを形にして、

たくさんの人々の力になりたい。

生きた実績を形にし、

自分を産んで育ててくれた両親に親孝行をしたい。

 

自分の可能性を信じたい!

人生は挑戦の連続!

目標に向かって常に走り続ける!!

 

最高の人生にします!!